小豆のみぞれアイス                   倉島 昭彦

生家で使っていた古い洋服ダンスを整理していたら、菓子の空き箱から父の古い写真が出てきた。
手札サイズのモノクロで、黄色いシミが数カ所に付いている。スキーを担いだ男性5人が雪景色をバックに楽しそうに笑っている。向かって一番右端が父だ。おそらく30歳代。父は晩婚だったのでひょっとすると独身の頃の父なのかもしれない。
スキーをこよなく愛した父は、よく飯綱鉱泉(現在の飯綱高原スキー場脇)までスキーを担いで徒歩で登り、昼を食べて一風呂浴びてから帰りの長い下りを一気に滑降してきたそうだ。その爽快さたるや無比のものだったと、夢見るような表情でよく話してくれた。家の中では無口で無表情なほうだったので、父がそうした一面をのぞかせるのはごく限られた時だった。この話も幼い私をスキーに連れて行ってくれるバスや電車の中、二人だけの時に話してくれたものだった。

私が幼かった頃、喘息持ちだった母は度々重い発作を起こしていた。姉は私より6歳も上だったので、既に男親と行動を共にする機会は少なくなっていた。だから休みになると父はよく私だけいろいろなところへ連れて行ってくれた。
それにしても今考えると親子連れで遊びに行くには結構レアな場所が多かった。しかも父は自動車免許を持っていなかったので、お出かけはいつも公共交通機関を使った。
例えば安曇野の明科にある長野県水産試験場。当時そこではニジマスの養殖池を一般入場者のために釣り堀として解放していた。そこに行くには、篠ノ井線の各駅列車で片道一時間はゆうにかかっただろう。蒸気機関車の煙が猛烈に煙くて長い冠着トンネルと、姥捨駅で繰り広げられるのんびりしたスイッチバックのショーと、ちょっとしたday tripだ。父はたいてい長野駅で冷凍みかんと駅弁を買って、姥捨のスイッチバックのタイミングで二人で食べた。試験場のニジマスは少しもすれていないのでおもしろいように釣れたから、実質釣りを楽しむ時間は30分がいいところで、今考えるとこの旅の醍醐味は往復の汽車の旅だったのだろう。

別のある夏の日、父は「今日は化石を採りに行こう」と言い出すや母におにぎりを握らせ、二人で戸隠行きのバスに乗り込んだ。つづら折りの県道戸隠線をボンネットバスは器用に上ったが、私はすっかりバス酔いしてしまった。限界が近づいた頃ようやく柵(しがらみ)郵便局前の人気のないバス停で降りた。獣道のような道だったが、父は勝手を知ったように草をかき分け裾花川の川縁まで降りて行った。そこにはやや傾斜した明瞭な縞模様の崖が切り立っていて、星のように無数のホタテ貝の化石がそこここに混じっていた。
現在の戸隠栃原にあたり、資料によると、戸隠連峰自体が地質学的には約500万~400万年前(新第三紀新世)の海成層から構成されていて、ホタテ貝類の化石が算出することで江戸時代から知られていたらしい。化石とは言えど石、なんとも重いので数個を採取して持ち帰るのがやっとだったが、以来それらが私の宝物となったことは言うまでもない。

しかし数十年の年月を経てすっかり老いた両親を、私の官舎の近くのアパートに転居させ生家を引き払う際に化石は廃棄してしまった。今考えるともったいないことをしたものだ。それにしても何故父がその場所を知っていたのかは今も不明である。中学校で教鞭をふるった時期もあった関係で知り得たのかもしれない。

そう言えば私は驚くほど父の若い頃のことを知らない。
太平洋戦争に徴兵されて戦地は東南アジアだったようだが、戦争のことはほとんど話すことはなかった。現地のバナナが美味しかったことくらいだろうか。捕虜になって、終戦から1年ほど経て南紀白浜に海路でたどり着いたようだが、これも聞き出した義兄から伝え聞いたことで、父の口から私が聞いたことはなかった。

兄弟姉弟は6人いたようだが、結核や疫痢などの感染症で4人が亡くなり、最終的に残ったのが長男の父と四女の叔母だった。
叔母は生涯独身だったため最後は私が看取ったが、父の話と言えば長男で威張っていたとか、甘いものが好きで大福餅を一度に10個も食べてしまったとか、父がなかなか大学に合格しなかったので自分は優等生だったのに進学を断念するしかなかったなどと、あまりよいことは言わなかった。
法事の席では酔った親戚の者が、「君の父上は極楽とんぼのように自由な人だったな」などと、褒め言葉とはとりにくい微妙な回想をしたりして、応対に困ったりした。若き日の父はあまり愛されない変人だったのだろうか?

晩年父は認知症になった。だが、閉口するような手に負えない周辺症状はほとんど見せなかった。とても可愛いお年寄りだった。
私の妻も、実父に対して以上に親身によく看てくれた。病院に入院すれば不思議に若い看護師さんたちに人気があり、とても愛情を注いでもらった。某病院に入院した際も、トイレに行って部屋に戻れない父のために、大きなサンタクロースのぬいぐるみを看護師さんがわざわざ買ってきてくれて病室の入り口に目印として取り付けてくれた。“ハジメさん(父の名前)人形”と彼女たちは呼んでいた。そうか、父のシンボルマークはサンタさんなんだと、何故かうれしい気がしたものだ。

父がいよいよ認知症の末期で、経口摂取が困難になる時が訪れた。入院中の病院に私と妻は呼び出され、胃瘻の同意書にサインをした。
あの食いしん坊だった父が口に食べ物を含めなくなることが辛くて、父を無理矢理ベッドから車いすに乗せて病院の見晴らしのよい場所に散歩に連れ出した。意識がもうろうとしてうとうと閉眼しがちな父に、売店で買った小豆のみぞれアイスを匙でほんの少し口に含ませた。
「おやじさんの好きな小豆だよ。大福餅と同じ小豆だよ」と。
アイスは口の中で溶けたが、目を閉じたままの父は嚥下したふうには見えなかった。そしてこれは父が生前最後に舌で感じた味覚となった。
それから約一年父は胃瘻から栄養を補給されて、眠ったまま静かに世を去った。
息を引き取ったという電話は折りしも私が患者さんに翌日の手術の説明をしている真っ最中だった。だからすぐには駆けつけることはできなかった。あいにく妻は実父の調子が悪く新潟の実家に帰っていたので長野にいなかった。だから父は誰にも見送られることなくひとりで逝った。

結局父は多くの謎と不思議を残して去って行った。
人から「極楽とんぼ」などと言われた若い頃、父自らはあまり多くを語らなかった若い頃は、どんなものであれ今は素粒子に戻ってしまった父の脳裏と数枚のモノクロ写真のなかにしか存在しない。
少なくとも私の脳裏には、出かけることや旅が好きで幼い私をスキーやレアな場所に遊びに連れて行ってくれたやさしく穏やかな父、食べることと呑むことが何より好きだった父、若い看護師さんたちや介護士さんたちから愛された年老いた頃の父、そして家族の誰にもほとんど手を煩わせることなく静かに世を去った父の、極上の記憶しか残っていない。
それでいい。でもこれを文章に残しておく義務がある。
だから久しぶりに晴れ上がった小春日和のわが家のウッドデッキでPCに向かってこの文章を書いている。ふとアゲハチョウが私の周りを2周あまり周遊して屋根の上の方へ飛んで行った。深い理由はないが、母が亡くなった後いつも絶妙のタイミングで度ある毎に現れたことから、アゲハチョウは母の化身だと私は思い込んでいる。アゲハチョウが去ってほどなく、心地よい初秋の風が文章を書く私を撫でていった。そう、父はこの微風のような人だったような気がする。

(2017年9月 脳とからだのくらしまクリニックホームページ 「院長のエッセイ」から抜粋。)